
- いつも見られている意識をもつことの重要性 ー
昔から、よく言いますね。
「悪いことをしたら、ほら、お天道様が見ているよ!」
そうなんですよね、確かに悪いことをしていると誰かにみらているような気がする。
それを感じるのは、その人間には良心というものがあるから。
じゃあ、悪いことをして平気でいる人間って何も感じないの?
そうなんですね。感じないんでしょうね。
最近は、いじめ問題や子どもの虐待事件を聞かない日がないくらいに、世の中が荒んできた。
犯罪まではいかなくても、会社でのパワハラとか、どこかの集まりとか組織でもいじめをしている
人間がたくさんいる。
私はそういうことを耳にするために、
”どうして酷いことをする人間て、平気でいられるんだろう?”
”自分で自覚ないんだろうか?”
本当に不思議でならなかった。
世の中、苛めをしている人間が何か勝ち誇っていて、苛められる人間は死んだり辛い思いを
しているのは、あまりに理不尽じゃないのか?
天は見ていないのか?
正義はどこにあるんだ?
ズルい人間は反省も何もなくのうのうと生きている。
そんなこと許されるのか?
テレビでは倍返しだの、復讐だの、行き場のない怒りを復讐に変えて我慢している。
ー この世に誤魔化せる、ものなんてひとつもない ー
仏法では一見理不尽の思えることにも、ちゃんとそのあたりの答えはあるんですよ。
先人の偉い人達は何千年も前から、いや、何万年まえから、その法則を知っていた。
この宇宙も地球もちゃんと、因果に関しての法則があるんです。
実は、そのことを真剣に悩んで考えてきたのは、
私もやられる側にいたから、ずっと我慢したり耐えてきた人生だったからだ。
ー いじめをする人間、される人間 の因果を考える ー
小学校の時に、特定の男子グループにいじめられていた。
生きるのが辛くて本気で死のうと思ったことがある。
12才の頃だ。
それを止めたのは、親に対する思い(死んだら親が悲しむだろう)と、
親友と呼べる友達に出した手紙の返事だった。
絶対死なないでくれと悲痛の返事だった。
私はその友達が小学校に転校してきた時から、
ずっと一緒に遊んできた。
彼女がある事件に巻き込まれ、母親を亡くした時にずっとその苦しみを聞いてきた。
まわりは彼女に関わるなと言った人もいた。
でも、彼女は転校してきたその日に、私に声をかけてきた。
後から聞いたのだが、私が優しい人に見えたと言ってた。
優しいというより誰よりも敏感だったから彼女の苦しみに反応してしまったのかもしれない。
小学校のときからひたすらカウンセリングみたいなことをしてきた。
その友達が、今度は必死で私を死なせないように励ましてくれた。
泣きながら電話もくれた。
彼女はまた転校してしまったのだが、文通をしていた。
彼女に助けられた。
その時のことは絶対忘れない。
いじめ問題はいずれ必ずこのブログで取り上げます。
私を死に追い込んだ同級生の名前も顔をすべて覚えている。
先生もグルだった。
最低の学校だと思う。
日本の教育なんて崩壊している。
だから苛めで苦しんでいる人の気持ちは痛いほどわかるつもりだ。
話は戻るが、そのいじめをした人達は、意外に出世したり楽しく生きていたりすることも多い。
何故、人を苦しめたのに罰もなく平気でいられるのか?
おかしではないか?
この世は不公平である!そう考えてきた。
しかし、
答えはちゃんとあった。
実はその人たちは既に地獄に堕ちることが決まっているからだ。
だから今世では痛い目に合わなかったりする。
何もおとがめがないこともある。
それは、既に行き場所が決まっているからだ。
これは本当だ。
反省も謝罪もないのである。
カルマを積んだまま、その加害者は地に堕ちていくだけである。
この真実を知ってしまうと、それは恐ろしい気持ちになる。
地獄という場所はないかもしれない。
もしあるとしたら、そこはその人間と同じタイプの人間が集まっている所を指す。
人を苦しめた人間は、今度は同じタイプにいじめられるのだ。
それもこの世ではなく死んだ後の話だ。
もう逃げ場はない。
もちろん苛めた相手にはひたすら懺悔しかない。
おまえは既に死んでいる!じゃないが、心はすでに地獄に魂を売ってしまったのだ。
もし、自分が嘘をついて人をおとしいれて、シャーシャーと生きていたら、
すぐに悪いことをしたという自覚があれば、
謝って心から反省すればカルマを重くつまなくていいはずだ。
謝るきっかけは、結局してしまったことのしっぺ返しが起きた時だ。
痛い目に合わないと人間は気がつかないのだ。
もし、ひどいことをしてしまったと感じたら、今度は人に尽くすことだけを考えればいい。
私はそうしてきた。
決して立派な人間じゃないのはわかっている、だからこそ無償の愛を貫くしかない。
もう一度言います。
酷いことをして生きている人間は、無自覚であればあるほど、それはとても怖いのである。
この世にはたくさんの教えがある。
人間が唱えている教えのほとんどは、その行いの善悪である。
何故、いいことをしなくてはならないのか?
もう一度かんがえてみよう。
決して無自覚の人間にはならないように。
自分の心は誤魔化せないのだから。
昨日はそんな話を知人と話しながら、私も心改めることにしました。
だから、恩には恩で答えていこうと思っています。
感謝と共に。